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いざやインフェルノへ Ⅰ

「出て行ってください!」

“神の家”と謳われる荘厳な教会が、怒声に揺れる。

「何度来られても、お断りします。出て行ってください!」

闇に溶け込むブラックスーツを隙なく纏う男たちに囲まれながら、怒声を上げたその青年は怯むことなく、むしろ男たちをキッと睨みつけていた。

いっそ清々しいとまで思わせる、歯に衣着せぬ物言い。
その態度に相応の、凛とした声音。
祭服に身を包み、聖書を片手に背筋を伸ばして立つ、清爽とした姿。
事の顛末を静観していたライは、その青年に興味をそそられた。

金糸で繊細な装飾が施されたストラを肩から垂らした漆黒の祭服に、同じ色の髪と瞳。
彼を取り囲む男たちも、そして自分も同じ色を纏っているというのに、まるで違う色彩のように見える。
闇でも夜でもない、一切の穢れがない純粋な漆黒色とでも言おうか。
中性的な雰囲気を持ち、冷たさを感じさせる端整な顔立ちにその漆黒色が凛々しい甘さを与えている。
幾千年が経った今もなお、美を具現して立つかの女神を生み出した芸術家でさえも頭垂れるであろうほど、その青年は精巧なバランスで造られた彫像のように完璧な存在だった。

(面白い…)

誰もが目を瞠るほどの端整なその顔立ちに憎悪を露わにし、純粋な漆黒色の瞳を吊り上げて男たちを怒鳴り睨みつける度胸と威勢に。
聖職者の顔をかなぐり捨て、ひとりの青年として在る美しいその姿に、ライは引き寄せられるかのように1歩踏み出した。

「何を騒いでいる」

青年に詰め寄る男たちの背に、そう投げかける。
決して荒げたわけでも、大声を出したわけでもない。
だが、ライのひどく凪いだ声に青年を囲んでいた男たちはぴたりと口を噤み、自然と身を引く。
囲みが静かに割れ、鋭い目付きで見上げてくる青年の姿がライの前に晒された。

青年は頭ひとつ分以上は違う身長にも怯むことなく、きゅっと口を引き結んでライを睨みつける。
ますます、興味をそそられる。
殺意を含んだ罵詈讒謗は飽きるほど浴びてきたが、これほどに真っ直ぐな瞳と対峙するのは初めてだった。

「司祭が市民の願いを無下にしてもいいのか?」
「あなたたちのような人に捧げる神の御言葉はありません。いい加減出て行ってください」

青年の暴言に血気立つ部下を視線で抑え、黒曜石のような彼の双眸に自分の姿が映り込んでいるのが見て取れるほど近付く。
だが、彼は身を引くことなく。
ましてや憎悪を隠すこともなく、ライを射抜いた。

無遠慮とも言えるその表裏のない眼差しや言葉は、ライにとっては新鮮なもので。
自然と、口許が緩む。

「ほぅ、俺たちのような人間は葬儀を上げることも許されないのか」
「そうではありません。あなたたちが参列することをお断りしているのです」
「部下の葬儀に出るな、と?」
「悼む気持ちのない者にその資格はない、と申し上げているのです」

ぴしゃり、と。
それ以上の問答を拒むような物言いは、不思議とライに心地良さを感じさせた。
言葉の裏を探ることも見返りを求めることもない、純粋な言葉のやり取り。

面白い。
俺の世界にはいない種類の人間だ、と感嘆にも似た感情が首を擡げる。
思わずふっと微笑を零せば、ますます強く睨まれる。
だが、ライとしては面白みが増すだけである。
彼にこうもずけずけと無遠慮に言葉を投げつけ、睨みつけてくる人間はいないのだから。

「お前らは外にいろ」
「で、ですが…」
「出ていろ」
「あなたも出て行ってください」

割り込むように、すかさず発せられた言葉に笑いそうになりながら部下を外に追い出し、ライは参拝者用のベンチに腰掛けた。

すでに街は夜に飲み込まれ、“神の家”にもその手は伸ばされている。
僅かな蝋燭の明かりを盾に辛うじてそれの侵略を拒んでいるが、不安定なオレンジ色の炎は何とも危うい。
だが、その危うさが儚さの中にある美しさを強調していた。
オレンジ色に淡く照らされる大理石、月光を食んで輝くステンドグラス。
何層にも重なった色彩豊かな光に抱かれる、祭壇と十字架に架けられた憐れな救世主。
そして、それら全てを背にした青年。

目の前の光景にではなく、青年のその立ち姿に。
美しい、とライは瞳を細めた。

「…お話しすることは何もありません。あなたもお帰りください」
「まぁそう恐い顔をするな。美人なのにもったいない」
「……今すぐ出て行ってください。ご必要であれば他の教会をご紹介しますので、もう二度とここには来ないでください」

そう言い放った先にいる男が、ただの男ではないことを。
自分とは全く正反対の世界に生きる者だと。
深く濃い影の中に棲むマフィアと呼ばれる人間だと、この青年は分かっているはずだ。
それでも、彼は凛然とした態度を崩さない。

「良い度胸だな、お前」

わざと声を低め、殺気に近いものを向ける。
だが、青年の瞳は揺らぐことなく、いっそ一途なまでに怒りと憎しみをぶつけてくる。

ライは徐に、懐に手を入れた。
冷たい硬質な鉄の塊に指先が触れ、それを取り出す。
鈍く光る黒い獣が、闇の中で牙を剥く。

「これが本物かおもちゃか、見分けくらいつくだろう?」

青年の眉間に照準を合わせ、トリガーに指をかける。
軽く指を引くだけで、彼はあっけなく鉛に命を奪われる。

「…………」
「…………」

静寂が、2人の間に落ちた。
青年はピクリとも動かず、銃口ではなくライの瞳をじっと見つめている。

憎悪はあれど、恐怖の色はない。
そんな瞳を見つめ返しながら、ライは内心で首を傾げた。
身を守る術を持たない弱者は、突きつけられた死の恐怖に慄くものではないのだろうか。
だが、彼は命乞いをするでも逃げるでもなく。
ただライを見つめていた。

(余程の馬鹿か、肝が据わっているのか…)

そのとき、ふと。
視界に入ったものに、ライは小さく口角を上げて静寂を破った。

「逃げないのか?」
「何故ですか」
「死ぬぞ?」
「そうですね」

間髪入れることなく、ぽんぽんと返される言葉に笑いが込み上げる。

銃口を向けられているというのに1歩も退くことなく、視線すらも外さない。
それは無知故の暴挙でも、肝が据わっているからでもなく。

(この俺を威嚇するとは、上等だ)

真っ直ぐに睨みつけてくる瞳は刃のように鋭いというのに。
ふと視界に入った固く握りしめられている掌は、微かに震えていた。
あぁ、そうだ。
毛を逆立てる仔猫ほど、実は怯え震えているものなのだ。

「あいつは、俺を庇って死んだ」
「それが何でしょうか」
「俺の部下だ」
「そうですか」
「それなのに、俺には弔う気持ちがないと?」
「あなたの気持ちは知りません。理解をする気もありません」

本当は怯えて震えているというのに、必死に押し隠してまだ気丈に振舞うというのか。
手を差し伸べられるのを望み懸命に声を上げておきながら、伸ばされたその手に怯え牙を剥く。
まるでそんな捨て猫のようだな、と低く笑う。

「ここでの葬儀はあいつの願いだった、と言えばどうする?」
「では、彼の葬儀は私が責任を持って執り行いましょう」
「ボスである俺が参列するのは、常識だと思うが?」
「あなたの世界の常識は知りません」

よくよく意識を集中させてみれば、青年の声が微かに震えていることにも気付く。
ライは自分に従わせていた空気を解放してやり、僅かに威圧感を和らげる。

「お前の言う、弔う気持ちとは何だ?」
「彼の死を悼み、冥福を祈り、涙を流すことのできる気持ちです。あなたの部下の方にそれがあるようには思えません」

その言葉にライは笑みを消し、瞠目した。

青年が知っているのは、ライの部下が死んだという現実だけだ。
幹部の地位にあった男が死んだ今、その椅子を狙って内部が殺気立っていることは、一部の者しか知らない事実。
青年が、知るはずもないのだ。

ただの勘か、それとも醜い権力争いの匂いを感じ取ったのか。
どちらにせよ、彼の言葉は真実だった。
ライは青年から銃口を下ろし、ホルスターに収めた。

「あいつがここでの葬儀を望んだ。組織を統べる者として、部下の最期の願いは叶えてやりたい」
「……」
「参列は、俺と俺が選んだ者だけだ。それなら構わないか?」

言外に、権力に固執した人間は参列させないと含ませる。

「……式次第は後日」
「あぁ、頼んだ」

不承不承と言いたげな表情ではあったが、ようやく頷いた青年をまじまじと見る。
圧倒的な強者に歯向かう無知で無謀な子どもかと思えば、虚勢を張る臆病な青年で。
だが、目を瞠るほどの聡明さと芯の強さを併せ持っていることも確かで。
首を擡げた彼に対する興味が、膨らんでいく。

「お前の名は?」
「神に捧げました」
「ふっ、気に入った」
「私はあなたのような人、嫌いです」

忌々しそうにそう言い放った青年に、小さく笑う。

(あぁ、いい瞳をしている)

強い負の感情を浮かべていながらも、黒曜石の瞳には澄んだ輝きが宿っている。
聖水のような、決して穢してはいけないような、白い光が。

「もう用は済んだはずです。お引取りください」
「怒っていても美人は美人なんだな」
「…あなたは葬儀に出席しないでください」
「おっと、それは困るな。じゃぁな、また来る」

もう来るな、と言わんばかりの眼差しにくっくと低く笑い、ベンチから腰を上げる。
夜の手に抗い切れずに飲み込まれた身廊は、蝋燭の明りだけで歩くには心許無い。
だが、闇と生きるライにとっては不自由するものではなく、危なげない足取りでベンチの脇を進む。
そして閉ざされていた扉に手を掛け、ふと、祭壇を振り返った。

神聖な、神の家。
夜の手が自ずから避けているかのように、そこだけは光に溢れていた。
贖罪を請う者が、救いを求める者が、最期に縋りつく場所をその光が優しく包み込む。

(美しい…)

思わず、息を飲む。
その場所に立ち、救世主に見下ろされた青年が放つ清冽な光に瞬きを忘れる。

彼の背に、あるはずのない純白の翼が見えた気がした。




珍しくタイムスケジュール通りに仕事が片付いていき、このまま屋敷に戻るには時間を持て余しそうな中途半端な頃合だった。
書類にも目を通し終えてしまい、久しぶりの“手持ち無沙汰”という状況にライは何ともなしに車窓へと視線を移した。

そして偶然、教会の姿が視界に入る。
数週間前、部下の葬儀を行ったあの教会だ。
無意識のうちに、唇が動いていた。

「おい、停めろ」

誰にでも開かれた場所であることが本質とされる“神の家”は、たとえ重罪人であってもその扉が閉ざされることはない。
万人にとって等しく帰る家でもあるというそこが、帰ってきた我が子を拒むことはないのだ。

この教会でなければ、という但し書きを付け加えながら、ライは見た目を裏切らない重厚な扉を片手で軽々と開け、内部への侵入を果たした。

(ここに来ると、硝煙と血の匂いが消されていくようだな)

神をも殺してきた自分が何を今更、と自嘲気味に思いつつも、静謐な空気に洗われていくような感覚は、ひどく心地良かった。
その感覚を味わいながらゆったりと歩を進め、すでに見慣れた内部の意匠を改めて楽しむ。
不思議と光を感じるのは、所々に灯された蝋燭の明かり故か。
いや、蝋燭などなくとも。
たとえば、どれほど深い闇に沈んだとしても、この場所だけは自ら煌々と光を放つに違いない、とライは宙色の瞳を細めた。

そうしてたっぷりと時間をかけて長い身廊を進み、祭壇の前で歩を止める。
頭上に、『最後の審判』が描かれた小さなクーポラを戴く。

「熱心なことだな」

目の前のベンチにコートを放り投げ、どさりと腰を落とす。
そこからはちょうど、祭壇に膝を付き、祈りを捧げている華奢な背中を見ることが出来た。
何か語りかけるでもなく、一向に振り返る気のないそれをじっと見つめる。

「……」
「……」

無言の時間が流れる。
一体どれほどの時間をそうして過ごしたか。
背中に突き刺さる無遠慮な視線に耐え切れなくなったのか、ようやく青年は聖書を捲る手を止め、「また来たのか」と言わんばかりの顔をライに向けた。

秀眉を顰めながら、憎悪を滲ませた漆黒の瞳で睨み付けてくる。
それを楽しげに受け止め、この素っ気無さが男の征服欲を煽っているのだと彼が気付くことはないだろう、と小さく笑う。
精緻な計算によって完璧なバランスでパーツが配置された青年の容貌はどこか神々しさを感じさせるほどのもので、鋭い眼差しさえもライに「美しい」と思わせるだけだった。

「何の用でしょうか」
「仕事が早く終わったんでな」
「そうですか。でしたら、どうぞお帰りください」

さも迷惑そうに、ため息を吐かれる。
その余韻が消え去る前に、青年はライを一瞥することもなく、再び祭壇に向き直った。

「聖職者は随分と遅くまで仕事をしているんだな」
「……あなたは随分と暇なんですね」

呆れたように言いながら、それでも声を荒げて拒絶されないだけ進歩と言えた。
ただ単に、ライの存在を諦めただけなのかもしれないが。

(私はただの、葬儀を執行した司祭だというのに…)

どうしてこんな状況になっているのだろう。
嘆きにも似た青年の心中を、その背が語っているようだ。

ライは己の不躾な視線を拒むように、頑としてこちらを見ようとしない青年に口許を緩めた。
意地を張る幼子か、構ってもらえずに拗ねている愛玩動物のようだ。
いや、彼の場合は他人を自分のテリトリーに入れることを拒む臆病な野生動物か。

「食事でも行くか?」
「お構いなく」
「ここに住んでいるのか?」
「お答えする必要がありません」

にべもなく返ってくる答えに、口許は緩むばかりだ。
偽りのない言葉の応酬が、ひどく心地良い。

「何故そこまで俺を拒む?」
「マフィアが好きな一般人はいないと思いますが」
「お前のは違うだろう」
「えぇ、あなたのことを嫌っていますから」

“あなた”を強調され、思わず笑う。
マフィアというものではなく、ライ個人を嫌っている、と。
その言い方に、彼に対する興味は助長されていく。

「面白いな、お前」
「そうですか、ありがとうございます。邪魔なので、出て行って頂けますか」

野良犬を追い払うような言い方に、ライは声に出して笑った。
こんな風に純粋に笑ったのは、久しぶりのことだ。
いまだ名前すら教えようとしない、警戒心の強い青年にますます興味が湧く。

「俺はマフィアのボスだぞ」

平穏な表の世界で生きる者たちは、マフィアと出会えば目を合わせまいと道を開ける。
対峙した者は、叶わないと知りながらも命乞いをすると言うのに。

「それが何ですか」

同じマフィアであっても畏怖する冷酷無慈悲な男を前に、彼は本心では恐怖を抱いていようが、牙を剥き、虚勢を張る。
ただの虚勢ではない。
彼の中で、恐怖よりも憎悪が勝っているのだろう。
幾度となく向けられてきた明確な殺意が、彼の瞳には宿っていた。

(まぁ、それは仕方ないか)

ライにとって、一般人の、それも善良なる司祭の過去を知ることは造作もないことだ。
たった数枚の報告書で、彼が歩んできた24年間を知ることができた。
16年前、この教会で。
この場所で、彼の養父が殺されたことも。

まだ10歳に満たない幼子だった彼の目の前で、あるマフィアの抗争に巻き込まれて何の罪もない命を奪われたのだ。
そのファミリーはそれから数年後に起こった抗争に負けて殲滅されたため、今は存在しない。
だが、彼にとって“マフィア”は憎むべき存在で、養父の死と全く無関係のライもまた、憎むべき“マフィア”という生き物であることに変わりはないのだろう。
生まれて間もなく実の両親から捨てられた彼にとって、唯一の家族であった養父を目の前で奪われたその哀しみと怒りは今も胸の中にあるに違いないのだから。

(それでもいい。今は、な)

内心でほくそ笑み、すげない背中を見つめる。
常では味わうことのできない言葉の応酬も存分に楽しませてくれるが、ふと、静寂に包まれた中で凛と背筋を伸ばす彼の仕草を余すことなく見ていたい、と思ったのだ。

立場上、“愛人”と呼ばれる存在はいる。
だがそれはあくまでもライの肩書きに付属されるものであり、私的な感情が生まれたことは一度としてなかった。
装飾品の一種。もしくは、あらゆる交渉の道具。
ライにとって、自身の傍にいる女という存在は、その程度のものであった。
欲求を満たすだけなら、誰でも構わなかったのだ。

(そう、誰でも構わなかった…)

自身でさえも理解のできない確かな“変化”に、戸惑いがないと言えば嘘になる。
だが、その“変化”を拒むのかと問われれば、答えは否だ。
戸惑い、歯痒さを感じながらも、それを「悪くない」と思っている自分自身に自嘲ではない苦笑をそっと零す。

(だが今はお前でないといけない、と言ったら…どんな表情を見せてくれるだろうか)

生きてきた環境も、棲む世界も全く正反対のものだ。
神に身を捧げた司祭と、闇と生きるマフィアのボスである自分。
清廉な青年と、血塗れた男。
何ひとつとして、共通するものはない。
本来なら、交わるはずのなかった道を歩く者同士である。

だが、出逢ってしまった。
たとえ憎悪の対象として忌避されていようが、出逢ってしまったのだ。

(さて、どうするか)

欲するものを手に入れることなど、ライにとっては造作もない。
しかし、こればかりは。
この青年の心だけは、いくら金を積もうと、ましてや暴力と権力で屈服させようと手に入るものではない。
ならば、どうすれば手に入れることができるのか。

初めて抱いた執着心と、たったひとつのものを手に入れたいと激しく渇望する衝動を上手く消化できずに、誰にともなく小さく舌を鳴らす。
だが、どれほど焦燥に苛立とうが、その衝動だけはライの中から去ろうとはしなかった。
どんな力にも屈せず、健気なまでに背筋を伸ばし、凛と立つ姿が頭から離れないのだ。
焼きついてしまったと言ってもいい。
細胞のひとつひとつにまで、刻み込まれてしまったのだ。

(…ったく、らしくねぇな)

そんな呟きを内心で落とし、胸ポケットからシガーケースとライターを取り出す。
ここは禁煙です、と静かに一喝されるだろうなと微苦笑を浮かべながら、わざとらしくカシャンと音を立ててライターの蓋を開ける。
だが、それは一向になく。
火を灯すタイミングを失ったライターから、顔を上げる。

その瞬間、炎に焼かれていた蝋燭がその身を食い尽くされた。
底のない沼のような冷たい空気が、じわじわと足元に纏わりついてくる。
白いはずの大理石の身廊は闇に飲み込まれ、左右にある側廊はその姿を消している。
しかし、祭壇だけははっきりと見て取ることができた。
闇と生きているからでも、夜目に慣れているからではなく。

(あぁ、今夜は満月だったか)

小さな教会だが、その立派な祭壇は色鮮やかなステンドグラスで飾られている。
白い月光を食んで煌くそれの下にある祭壇に目をやり、幾度か目にしたものとは全く違うもののようだ、と思う。
残酷なまでに冷たく硬質で、ひどく無機質な存在感。
いつだったか、そこに感じた温もりは微塵もない。
豪奢な彫刻も、精緻な細工も、まるで生気を失ってしまったかのようだ。

「…………」

そして、ライの宙色の瞳はその更に下へと向けられる。

「……angelo…」(天使)

思わず、感嘆が零れる。
多くの芸術家が恋焦がれ、筆を走らせ続けたように。
ライもまた、この醜い地上に立つにはあまりにも眩しく儚く清冽な存在に、囚われた。
何ものにも支配されることのない、決して冒されることのない、白い光に。

「……美しい」

ぞっとするほど冴え冴えとした満月の光の下。
青年は、佇んでいた。

漆黒の祭服は闇に溶けることなく、その輪郭まで見て取れる。
漆黒の髪は、1本1本が黒真珠のような光沢を放っている。
大理石のメシアの彫像は影に飲まれてしまっているというのに、彼だけが、まるで、闇さえも彼に触れることができないかのように。
光に加護されているかのように、鮮明にそこに存在していた。

不意に、ライの耳朶を優しい旋律が擽った。
そこにいるのかもしれないメシアに見下ろされながら、彼の唇は歌を紡いでいた。
朗々と清らかに。
しかし、大地を揺さぶるほどの力を持った声音が、静謐な空気と調和していく。

(彼に純白の翼があるように見えたのは、気のせいではなかったんだな…)

瞬きも呼吸も忘れ、ライは自分の指先が震えていることにさえ気付くことができなかった。

(そうか、お前はやはり…)

何千、何万という幾多の画家や音楽家たちは、その聖なる存在の具現化を試みては尽く失敗に絶望したという。
だが、その存在が。
神を讃え、栄光を願う歌を唄い、隠していた翼を惜しみなく晒す天使が、そこに確かにいた。

「ラファエル」

初めて唇に乗せた青年の名前の美しさに、歓喜が。
そして、愛しさが溢れ、ライの全身を満たした。


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2012-10-11
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